クライマー・ドラマー 斎藤清人さん
20代の多くを海外で過ごした後、ポテンシャルが高い南魚沼に
奔放な心性から学業からの「寄り道」も増えて、いつしか「大自然、音楽、美酒美食」に憑りつかれ、気づけば20代前半の大半を外国で費やしていました。南米大陸では2つも年をとってしまいましたし、世界30ヵ国をまわり、4か国語を話せるようになっていました。
観光ガイドブックではなく、人類学の専門文献を情報源に、その先を目指していたので、ずいぶんと世界の最深部にふれてきました。今になって思えば、もはや探検家でした(笑)。年間50万人が海外旅行に行く時代、「その年の日本人の入国履歴5人の国」や「人類学史において日本人の足跡なし」といった唯一無二なサムシングになりかけていたんです。
そのまま突き進んでもよかったのですが、新潟のポテンシャルにも気づきかけていて「よし日本で生きよう。近い将来、新潟に帰ろう」と思うようになっていました。
その頃、南魚沼周辺の魅力を再認識する出来事がありました。神奈川から新潟の実家まで、真夏に400㎞を歩いて帰ったことがあります(笑)。実現しませんでしたが、アマゾン400㎞縦走を思い立ち、まずはその距離感をつかもうと試みました。
ところが道中、寄り道が増えて、温泉巡り、大衆居酒屋、名物を食べるグルメツアーのようになっていました。銭湯や大衆食堂で地元の人々の話題に耳を傾けて、深谷あたりではウナギ、湯宿あたりでは猿、魚沼に入れば田んぼの話題に心が躍りました。
旧子持村あたりから源泉掛け流しの温泉が道路沿いにあったんですが、極限状態の体に、それまでの銭湯にはない明らかな疲労回復効果を実感しました。
そんな旅で途中の南魚沼周辺に入ると「食も温泉も肌にあう」と強く感じたんです。それに、なにより人が素晴らしい。
突然走ってきて大きなスイカをくれた農家のおばさん、なぜか家にあげてくれて自家製シソジュースをごちそうしてくれたおばあさん。道をたずねたら「実家まで乗せてやるよ」としつこく言われ、趣旨を理解してもらうのに手間取ったおじさん。ほんの数十キロの間に、魚沼の人間の思いやりが身に染みました。
その後、妻の出産をきっかけに移住を実行しました。妻は十日町市(南魚沼市に隣接する市)出身ですが、出産を目前に、私が離職して新潟に引っ越すと言い出したら、妻も親も会社も驚いていました。仕事のあてもないので当然です。
ただ、新潟へ月一で釣りや野遊びに出かけていたので、「旅費が減る分、年収100万円くらい下がっても大丈夫だろう」と安易に考えていました。
それに、東京から200㎞程度の越後湯沢から、私の実家の奥阿賀までは更に200㎞近くあり、魚沼エリアは東京と故郷の中間地点です。
「ここに住めば、魚沼の自然を満喫しつつ、妻の実家の十日町も近く、たまには阿賀へも親孝行に帰り、東京の仲間にも日帰りで会いに行ける」という、一石四鳥を思い描いたんです。
いま、まさに思い描いた通りの生活を送っています。
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